子どもを子ども扱いしない方が良い話

コミュニケーションと心

教育的に子どもを子ども扱いしない方が良いと聞いた。
一人の人として対等に接することで自立するのだという。
これにはなるほどと思った。子どもを子どもたらしめているのは、まわりの人間なのかもしれない。
「子どもはこういうもの」「子どもらしい振る舞い」「子どもだから・・・」そんな枠をこしらえられた環境の中にいれば確かに、子どもは子どもらしい振る舞いや行動を行うというのは当然のことなのかもしれない。

これはおそらく子どもの教育だけの話ではないだろう。
〇〇だから、〇〇らしく、という一種の固定観念は自らの思考や行動を縛っていたり、他者にも〇〇らしさを求め縛ったりしていることは大いにあると思う。
それが常識と呼ばれたり、また普通はこうゆうものというような思考は、ある種の思考の停止であり、視野の狭さ、あるいは自己表現の抑制につながるのだと思う。

4月、会社に新卒が入ってきた。
入社してきた新卒自身にも、会社の社員にも「新卒はこうゆうもの」「新卒だから」というイメージがある。おそらく大きな会社や古い会社になればなるほど、その固定観念は強く、新卒は新卒らしく振舞うのがベストな行動となるだろう。上司が求める新卒らしさに答えることによって、その会社内では受け入れられるだろう。
しかし、そんな中で様々な疑問をいだいたり、歯がゆさを感じる者もいる。上司からすると生意気かもしれない、世間からすると非常識かもしれない。新卒が周りが思う新卒像に当てはまらない時にそんなことは起こっているように思う。

新卒であろうと能力があるものは型にはまる必要はない。年功序列で能力は計れない。
逆に新卒だから許される、教えてもらえるというような新卒側の思考も、成長を止める一因となるだろう。

私の会社はベンチャーなので、社員自体が自分の考えで行動することが根底にあるため、新卒は嫌でも自らで考え、自ら行動する必要があるため悪くない環境だと思う。

新卒の話で例えるとまた教育の話になってしまったが、これは対人関係や自己表現にも関わってくる話でもある。自分が思う自分と他者が抱いている自分のギャップによって、キャラクターは生成されていることが多い。自分は前にでるタイプじゃないから、自分はこうゆう人間だから、の自己分析の中には他者によってつくられたものも少なくない。他者からのニーズ(需要)に応えることによってうまくいく場合と、自分の可能性を閉じ込めたり、ストレスになったりする場合があると思う。

人だけでなく、物事をみる時は「こうゆうものだ」という決めつけは思考停止的行動であり、またそのように枠を設けられるという可能性もあるということだ。
「子どもを子ども扱いしない方が良い」という言葉を聞いてそんなことを考えた。

コメント

タイトルとURLをコピーしました